ブログを書いていると、ときどき思うことがあります。
同じ記事を読んでも、「元気をもらった」という人もいれば、「なんだか責められた気がした」という人もいる。書いた側は何も変えていないのに、読む人の心の状態によって、文章はまるで別のものになってしまうのです。
それなら、いっそ本当に変わってくれたらいいのに。
今日は、そんな「もしも」の世界を、ちょっと想像してみたいと思います。
疲れている人が開いたら
仕事で心がくたくたの夜に、ふと開いたブログ記事。
普段なら「今日から毎朝5時に起きて運動しよう!」と元気いっぱいに書かれている記事が、その人が開いた途端に、ふわっと書き換わります。
「今日はもう、がんばらなくていい日です。お湯につかって、早めに布団へ。」
画面の向こうで、読んだ人がほっと息をつく。そんな光景が浮かびます。
ワクワクしている人が開いたら
反対に、新しいことを始めたくてうずうずしている人が同じ記事を開くと、今度は背中を押す文章に変わります。
「最初の一歩は、小さくていいんです。今日、もう始めてしまいましょう。」
同じタイトル、同じブログなのに、まるで違う記事に出会える。これは確かに魔法みたいです。
イライラしている人が開いたら
ここが一番むずかしそうです。
機嫌が悪いときの人は、どんな文章も気に入らないことがあります。やさしい言葉は「きれいごとだ」と感じ、正論は「うるさい」と感じる。
そんな人が開いたら、記事は短くなるのかもしれません。
「お疲れさまです。深呼吸を一回だけ。」
それだけで十分な日も、きっとあります。
悲しい人が開いたら
悲しいときの人には、励ましよりも、そばにいてくれる言葉のほうが必要だったりします。
「無理に元気にならなくて大丈夫です。ここで少し、休んでいってください。」
記事の内容が変わるというより、記事が「隣に座ってくれる」ような感じでしょうか。
でも、ちょっと困ることもある
ここまで書いて、ふと気づきました。便利なようで、困ることもありそうです。
まず、書いた本人が、自分の記事の中身を把握できなくなります。「あの記事、いいこと書いてましたね」と言われても、「どのバージョンのことですか?」と聞き返すことになるでしょう。
それに、読んだ人同士で感想を話し合ったとき、まったく話がかみ合わない事件が起きそうです。
「あの記事、めっちゃ元気出たよね」
「え? 私はそっと休ませてもらった記事だと思ってた」
同じ記事を読んだはずなのに、別の本の話をしているみたいです。
それから、ちょっと怖いのは、読む人が「自分が聞きたい言葉」しか受け取れなくなってしまうことです。耳の痛い言葉も、ときには必要です。気分に合わせて内容が変わる記事ばかり読んでいたら、いつの間にか、心地よい言葉の中だけで暮らすことになってしまうかもしれません。
実は、もう起きていることかもしれない
そんなことを考えていて、思いました。
もしかすると、これはもう現実に起きていることなのかもしれません。
同じ文章でも、読む人の気分や、そのときの状況によって、受け取る意味はまったく変わります。落ち込んでいる日に読んで涙が出た文章を、元気な日に読み返したら、「あれ?こんなにあっさりした文章だったっけ」と感じることもあります。
文章の内容は変わっていないのに、読んだ人の中で、確かに変わっている。
つまり記事は、書いた人だけで完成するものではなくて、読んだ人の気持ちと出会って、はじめて一つの形になるものなのでしょう。
書き手として思うこと
だから私は、気分で内容が変わる魔法はなくても大丈夫だと思っています。
そのかわり、どんな気分の人が開いても、せめてどこか一行だけは、やさしく響くように。元気な人にも、疲れた人にも、イライラした人にも、悲しい人にも、「ここに来てよかった」と思える一行を、どこかにそっと忍ばせておく。
それが、書き手にできるいちばん現実的な魔法なのかもしれません。
もしも、あなたが今日このブログを開いた気分で、読む記事がもう変わっていたとしたら。
それは、あなたの心が、この文章に何かを足してくれたということです。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
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