山の朝は、いつも静かだった。
木々の葉は風に揺れ、細い沢は石の間を流れ、遠くでは鳥の声がゆっくりと響いていた。
人の気配はほとんどなく、ただ土の匂いと、湿った苔の匂いだけが道の上に残っていた。
その山道を歩いていると、ふと、同じ鳥の声が二回続けて聞こえた。
それ自体は不思議なことではない。
けれど、二回目の声は一回目とまったく同じだった。
高さも、長さも、余韻も、空気に溶けていく感じまで、何ひとつ変わらなかった。
まるで、さっき聞いた音をそのまま貼りつけたようだった。
足を止めると、今度は目の前の木の葉が揺れた。
風が吹いているわけではない。
それなのに、一本の枝だけが、同じ速さで、同じ角度で、何度も揺れていた。
右へ、左へ。
右へ、左へ。
そこだけ時間が小さな輪になって、抜け出せなくなっているようだった。
山の中で、何かが少しだけ壊れていた。
最初は見間違いだと思った。
疲れているのかもしれない。
朝早くから歩いていたから、目が変なものを拾ってしまったのかもしれない。
そう思いながら先へ進むと、山道の脇に小さな石仏があった。
苔をかぶった古い石仏で、顔は長い年月で少し丸くなっていた。
その石仏の前に、赤い木の実が一つ落ちていた。
風が吹き、木の実がころりと転がった。
すると次の瞬間、木の実はまた元の場所に戻っていた。
そしてまた、ころりと転がる。
戻る。
転がる。
戻る。
小さな木の実だけが、終わらない一秒の中に閉じ込められていた。
その光景を見ているうちに、背中のあたりが少し冷たくなった。
怖いというより、世界の裏側を少しだけ見てしまったような気持ちだった。
山は昔から、何かを隠している場所だと思う。
町のように明るく説明してくれない。
道は曲がり、木々は重なり、音は遠くへ逃げていく。
だからこそ、少しくらい不思議なことが起きても、山ならあり得る気がしてしまう。
けれど、その日の山は不思議という言葉では足りなかった。
沢の水が途中で止まっていた。
水しぶきだけが空中に浮かび、透明な粒のまま、光を受けてきらきらしていた。
その奥では、水の音だけが先へ流れていた。
見えている水は止まっているのに、音だけが続いている。
目と耳が別々の世界に連れていかれたようだった。
さらに奥へ進むと、森の景色が一部だけ四角く欠けていた。
そこには木も、岩も、草もなかった。
ただ薄い灰色の四角い空間が、空気の中に浮かんでいた。
近づくと、その四角の向こう側に、少しだけ別の山道が見えた。
同じ山のはずなのに、季節が違っていた。
向こう側では紅葉が赤く燃え、こちら側では夏の緑が深く沈んでいる。
一歩踏み出せば、別の季節に入ってしまいそうだった。
そのとき、遠くから鹿の鳴く声がした。
振り返ると、木々の間に一頭の鹿が立っていた。
鹿はじっとこちらを見ていた。
その姿は美しかった。
けれど、よく見ると輪郭が少しずれていた。
体のまわりに、透明な影のようなものが何重にも重なっている。
まるで、鹿が何度も読み込まれ直している途中のようだった。
鹿は一度まばたきをした。
すると、次の瞬間には少し離れた場所に立っていた。
歩いたわけではない。
音もなく、ただ位置だけが変わっていた。
そしてまた、こちらを見ていた。
山のバグは、少しずつ広がっているようだった。
木漏れ日は地面に落ちる前に止まり、影は本来とは逆の方向へ伸びていた。
落ち葉は上へ舞い上がり、鳥は羽ばたかないまま空に浮いていた。
道端の標識には、見たことのない文字が一瞬だけ表示され、すぐに古びた木の板へ戻った。
それは人間に読ませるための文字ではなかったのかもしれない。
世界そのものが、何かを修正しようとしている。
そんな気がした。
山の奥には、小さな祠があった。
古い石段の上に、木でできた小さな祠がひっそりと立っている。
扉は閉じられ、しめ縄は少し色あせていた。
けれど、その周りだけはバグが起きていなかった。
沢の音も、鳥の声も、木の葉の揺れも、そこでは自然に戻っていた。
まるで山の中心に、小さな正しい場所が残されているようだった。
祠の前に立つと、不思議と怖さは消えていた。
山が壊れているのではなく、何かを思い出そうとしているのかもしれない。
ずっと昔から重ねてきた風景。
雨の日の山。
雪の日の山。
誰かが祈った朝。
誰も来なかった夕方。
そういう無数の時間が重なりすぎて、ほんの少しだけ画面ににじみ出てしまった。
そう考えると、空中で止まった水しぶきも、同じ動きを繰り返す木の葉も、少しだけ悲しいものに見えた。
世界の故障というより、山の記憶の混線だった。
やがて、風が吹いた。
今度は本物の風だった。
止まっていた沢の水が流れはじめ、空中の水しぶきがぱらぱらと落ちた。
鳥は羽ばたき、木の実はもう戻らず、石仏の足元で静かに止まった。
灰色の四角い空間も、少しずつ森の緑に溶けていった。
山道は、何事もなかったように元の姿へ戻っていた。
けれど、完全に元通りになったわけではなかった。
一枚の葉だけが、地面に落ちる途中で少しだけ光った。
それは合図のようにも見えた。
まだ世界のどこかに、小さな継ぎ目が残っている。
そんなことを思いながら、私は山を下りた。
町に戻ると、車の音も、人の声も、信号の光も、いつも通りだった。
けれど、ふとした瞬間に思い出す。
あの山の中で、同じ鳥の声が二度鳴ったこと。
水しぶきが空中に止まっていたこと。
季節の違う山道が、四角い穴の向こうに見えたこと。
もしも山の中でバグが発生したら。
それは、世界が壊れる瞬間ではないのかもしれない。
人が忘れてしまった山の記憶が、ほんの少しだけ表に出てくる瞬間なのかもしれない。
そして山は今日も、何も知らないふりをして、静かに風を通している。
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