武蔵坊弁慶という名前には、ただ強い男というだけでは足りないものがある。
大きな体。
太い腕。
薙刀を握る姿。
主君を守るために、最後まで退かなかった背中。
けれど、もし弁慶が神格化されたなら、そこにあるのは力だけではないと思う。
それは、門を守る神のような姿かもしれない。
古びた仁王門の前に、弁慶は静かに立っている。
朝の光が木々のあいだから差し込み、うっすらとした霧が足元を流れていく。
左右には仁王像が立っているのに、その中心にいる弁慶の存在感は、まるで像ではなく生きた守護神のように見える。
怒鳴るわけでもない。
叫ぶわけでもない。
ただ、そこに立っているだけ。
それなのに、誰もその先へ進めない。
弁慶の神格化とは、派手な光をまとった戦の神ではなく、動かないことで守る神なのだと思う。
命令されたから守るのではなく、勝てるから守るのでもない。
自分がここに立つと決めたから、最後まで立っている。
その覚悟が、時間を超えて神聖なものに変わっていく。
薙刀は武器というより、境界線のように見える。
ここから先は通さない。
ここから先には、大切なものがある。
そんな無言の誓いが、刃の先まで宿っているように感じる。
もし弁慶が神になったのなら、願いを叶える神ではないかもしれない。
富を与える神でも、運を呼ぶ神でもない。
それでも、人はその姿に手を合わせたくなる。
なぜなら、守るということの重さを知っているから。
失ってもなお退かなかった者の強さを、どこかで信じたいから。
弁慶は、誰かの前に立つ神だ。
逃げたい心の前に立ち、揺らぐ決意の前に立ち、もう無理だと思う瞬間の前に立つ。
そして何も言わずに、ただ示す。
「まだ、退くな」
そんな声が聞こえる気がする。
この画像の弁慶は、勝利の姿ではない。
美しく飾られた英雄でもない。
戦いの跡をまとい、重い衣をまとい、疲れも痛みも背負ったまま、それでも立っている。
だからこそ神々しい。
きれいだから神なのではない。
傷つかないから神なのでもない。
傷ついても、汚れても、壊れそうになっても、守るべきものの前から動かなかった。
その姿が、人の記憶の中で少しずつ大きくなり、やがて神のように見えてくる。
もしも武蔵坊弁慶を神格化したら。
それは、仁王門の奥に祀られる神ではなく、門の前に立ち続ける神だと思う。
誰かを守るために。
何かを終わらせないために。
大切なものを、最後の最後まで背中に隠すために。
弁慶は今日も、静かに立っている。
その姿を見た人は、きっと思う。
本当の強さとは、倒さないことではなく、退かないことなのかもしれない。
ここまで読んでくれて、ありがとうございます
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