もしも本当に天狗がいたら、
人は山を、もう少し静かに見るようになるのかもしれない。
ただ木が生えている場所ではなく、
ただ登って下りる場所でもなく、
そこには人間ではない何かが、
昔からずっと息をしている。
そんなふうに思うだけで、
山の空気は少し変わって見える。
天狗という存在は、
怖いだけではない。
人を迷わせるものでもあり、
人を試すものでもあり、
時には誰かを導くものでもある。
もしも夜の山道で、
木々の奥から羽音のような音が聞こえたら、
それは風ではないのかもしれない。
高い杉の枝の上から、
こちらをじっと見下ろしている影がある。
赤い顔。
鋭い目。
黒い翼。
人のようで、人ではない姿。
けれど、そこにあるのは、
ただの化け物の気配ではない。
長い時間、山を守ってきたものだけが持つ、
静かな威厳のようなものがある。
もしも天狗がいたら、
人間の小さな嘘や弱さなど、
すぐに見抜かれてしまう気がする。
強く見せようとしている心も、
本当は逃げ出したい気持ちも、
全部、山の闇の中で見透かされる。
だから天狗は、
人に力を与える前に、
まずその人の心を見るのかもしれない。
技を教えるのではなく、
覚悟があるかを試す。
強さがほしいのか。
それとも、ただ誰かに勝ちたいだけなのか。
その違いを、
天狗は黙って見ている。
牛若丸が天狗から武術を教わったという話も、
ただ不思議な昔話では終わらない。
そこには、
孤独な少年が、山の中で何かに出会い、
自分の運命を少しずつ変えていくような、
静かな物語がある。
もしも天狗がいたら、
人間を甘やかしてはくれないと思う。
けれど、逃げずに立つ者には、
ほんの少しだけ道を見せてくれる。
暗い山道の向こうに、
次に踏み出す一歩を示すように。
天狗は、山の奥にいる怪異であり、
同時に、人の中に眠る強さを呼び起こす存在でもある。
もしも本当に天狗がいたら、
この世界は少しだけ怖くなり、
少しだけ深くなる。
見えないものを、
完全には笑えなくなる。
山の風が強く吹いたとき、
ふと空を見上げてしまう。
もしかすると、
その雲の向こうで、
誰かがこちらを見ているのかもしれない。
そう思えるだけで、
ただの風景だった山は、
物語の入口に変わる。
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