2026年5月24日日曜日
もしも織田信長が為せば成るの講義をしたら
広間には、誰の咳払いもなかった。
開け放たれた障子の向こうに、
灰色の雲が低く垂れこめていた。
遠くの山の上には城が見える。
その城もまた、
風の中で黙っているようだった。
家臣たちは頭を下げていた。
畳に額がつきそうなほど、
深く、静かに。
その中央に、ひとりの男が立っていた。
織田信長。
黒い甲冑に身を包み、
背後の空よりもなお重い気配をまとっていた。
信長の手には、一枚の紙があった。
そこには、太い墨でこう書かれていた。
為せば成る。
誰も、その言葉を軽く見なかった。
励ましの言葉ではない。
慰めの言葉でもない。
信長が持つと、
それは命令に近かった。
「為せば成る」
信長の声が、広間に落ちた。
大きな声ではなかった。
だが、その一言で、
空気が少し硬くなった。
家臣たちは顔を上げない。
ただ、耳だけを信長へ向けていた。
「多くの者は、この言葉を好んで使う」
信長は紙を掲げたまま、
ゆっくりと家臣たちを見渡した。
「努力すれば夢はかなう。そう思いたがる」
誰かの喉が、小さく鳴った。
信長は笑わなかった。
「だが違う」
その一言で、
広間の火が揺れたように見えた。
「為せば成るとは、願えば成るという意味ではない」
信長は、紙の文字を見た。
墨の黒さが、まるで戦の影のように濃かった。
「為す、というのは動くことだ」
信長の指が、家臣たちの方へ向けられた。
「迷っている間に城は落ちぬ」
「恐れている間に道は開かぬ」
「思っているだけでは、世は変わらぬ」
家臣たちは、さらに深く頭を下げた。
それは講義というより、
戦の前の裁きに近かった。
信長は続けた。
「できるかどうかを問う前に、まず為せ」
「勝てるかどうかを占う前に、まず進め」
「道がないなら、道を作れ」
外の雲の切れ間から、
わずかに光が差した。
その光は信長の甲冑を照らし、
胸の紋を鈍く浮かび上がらせた。
誰かが息をのんだ。
信長の言葉は、やさしくなかった。
けれど、不思議と逃げ道もなかった。
「人はすぐに言う。時が悪い。兵が足りぬ。相手が強い。味方が信用できぬ」
信長は、そこで少しだけ目を細めた。
「それで何が残る」
広間は沈黙した。
「言い訳だけだ」
冷たい言葉だった。
けれど、その冷たさの奥には、
燃えるものがあった。
信長は、ただ人を責めているのではなかった。
自分自身にも同じ言葉を突きつけているようだった。
尾張のうつけと笑われた日。
父を失った日。
弟と争った日。
大軍を前にした桶狭間の夜。
そのすべてを、
信長は「できるかどうか」ではなく、
「為すかどうか」で越えてきたのかもしれない。
「為せば成る」
信長はもう一度、その紙を掲げた。
「だが、為さねば成らぬ」
その言葉に、
広間の空気が沈んだ。
夢を見るだけの者には、重すぎる言葉だった。
けれど、戦国の世を生きる者には、
それくらいでなければ届かなかった。
信長は、遠くの城へ視線を向けた。
雲はまだ厚い。
空はまだ明るくない。
それでも、山の向こうには、
わずかに光があった。
「成るか成らぬかは、後のことだ」
信長は静かに言った。
「まず、為せ」
その瞬間、家臣たちは理解した。
この男にとって、
言葉は飾りではない。
紙に書かれた四文字は、
心を励ますための標語ではなく、
時代を動かすための刃だった。
もしも織田信長が、
「為せば成る」の講義をしたら。
それはきっと、
やさしい授業にはならない。
だが、聞いた者の胸には、
いつまでも残る。
できる理由を探す前に、
まず動け。
道がなければ、
自分の足で踏み固めろ。
その先にしか、
成るものはないのだと。
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