2026年7月2日木曜日

もしも山の中でバグが発生したら

もしも山の中でバグが発生したら

山の朝は、いつも静かだった。

木々の葉は風に揺れ、細い沢は石の間を流れ、遠くでは鳥の声がゆっくりと響いていた。

人の気配はほとんどなく、ただ土の匂いと、湿った苔の匂いだけが道の上に残っていた。

その山道を歩いていると、ふと、同じ鳥の声が二回続けて聞こえた。

それ自体は不思議なことではない。

けれど、二回目の声は一回目とまったく同じだった。

高さも、長さも、余韻も、空気に溶けていく感じまで、何ひとつ変わらなかった。

まるで、さっき聞いた音をそのまま貼りつけたようだった。

足を止めると、今度は目の前の木の葉が揺れた。

風が吹いているわけではない。

それなのに、一本の枝だけが、同じ速さで、同じ角度で、何度も揺れていた。

右へ、左へ。

右へ、左へ。

そこだけ時間が小さな輪になって、抜け出せなくなっているようだった。

山の中で、何かが少しだけ壊れていた。

最初は見間違いだと思った。

疲れているのかもしれない。

朝早くから歩いていたから、目が変なものを拾ってしまったのかもしれない。

そう思いながら先へ進むと、山道の脇に小さな石仏があった。

苔をかぶった古い石仏で、顔は長い年月で少し丸くなっていた。

その石仏の前に、赤い木の実が一つ落ちていた。

風が吹き、木の実がころりと転がった。

すると次の瞬間、木の実はまた元の場所に戻っていた。

そしてまた、ころりと転がる。

戻る。

転がる。

戻る。

小さな木の実だけが、終わらない一秒の中に閉じ込められていた。

その光景を見ているうちに、背中のあたりが少し冷たくなった。

怖いというより、世界の裏側を少しだけ見てしまったような気持ちだった。

山は昔から、何かを隠している場所だと思う。

町のように明るく説明してくれない。

道は曲がり、木々は重なり、音は遠くへ逃げていく。

だからこそ、少しくらい不思議なことが起きても、山ならあり得る気がしてしまう。

けれど、その日の山は不思議という言葉では足りなかった。

沢の水が途中で止まっていた。

水しぶきだけが空中に浮かび、透明な粒のまま、光を受けてきらきらしていた。

その奥では、水の音だけが先へ流れていた。

見えている水は止まっているのに、音だけが続いている。

目と耳が別々の世界に連れていかれたようだった。

さらに奥へ進むと、森の景色が一部だけ四角く欠けていた。

そこには木も、岩も、草もなかった。

ただ薄い灰色の四角い空間が、空気の中に浮かんでいた。

近づくと、その四角の向こう側に、少しだけ別の山道が見えた。

同じ山のはずなのに、季節が違っていた。

向こう側では紅葉が赤く燃え、こちら側では夏の緑が深く沈んでいる。

一歩踏み出せば、別の季節に入ってしまいそうだった。

そのとき、遠くから鹿の鳴く声がした。

振り返ると、木々の間に一頭の鹿が立っていた。

鹿はじっとこちらを見ていた。

その姿は美しかった。

けれど、よく見ると輪郭が少しずれていた。

体のまわりに、透明な影のようなものが何重にも重なっている。

まるで、鹿が何度も読み込まれ直している途中のようだった。

鹿は一度まばたきをした。

すると、次の瞬間には少し離れた場所に立っていた。

歩いたわけではない。

音もなく、ただ位置だけが変わっていた。

そしてまた、こちらを見ていた。

山のバグは、少しずつ広がっているようだった。

木漏れ日は地面に落ちる前に止まり、影は本来とは逆の方向へ伸びていた。

落ち葉は上へ舞い上がり、鳥は羽ばたかないまま空に浮いていた。

道端の標識には、見たことのない文字が一瞬だけ表示され、すぐに古びた木の板へ戻った。

それは人間に読ませるための文字ではなかったのかもしれない。

世界そのものが、何かを修正しようとしている。

そんな気がした。

山の奥には、小さな祠があった。

古い石段の上に、木でできた小さな祠がひっそりと立っている。

扉は閉じられ、しめ縄は少し色あせていた。

けれど、その周りだけはバグが起きていなかった。

沢の音も、鳥の声も、木の葉の揺れも、そこでは自然に戻っていた。

まるで山の中心に、小さな正しい場所が残されているようだった。

祠の前に立つと、不思議と怖さは消えていた。

山が壊れているのではなく、何かを思い出そうとしているのかもしれない。

ずっと昔から重ねてきた風景。

雨の日の山。

雪の日の山。

誰かが祈った朝。

誰も来なかった夕方。

そういう無数の時間が重なりすぎて、ほんの少しだけ画面ににじみ出てしまった。

そう考えると、空中で止まった水しぶきも、同じ動きを繰り返す木の葉も、少しだけ悲しいものに見えた。

世界の故障というより、山の記憶の混線だった。

やがて、風が吹いた。

今度は本物の風だった。

止まっていた沢の水が流れはじめ、空中の水しぶきがぱらぱらと落ちた。

鳥は羽ばたき、木の実はもう戻らず、石仏の足元で静かに止まった。

灰色の四角い空間も、少しずつ森の緑に溶けていった。

山道は、何事もなかったように元の姿へ戻っていた。

けれど、完全に元通りになったわけではなかった。

一枚の葉だけが、地面に落ちる途中で少しだけ光った。

それは合図のようにも見えた。

まだ世界のどこかに、小さな継ぎ目が残っている。

そんなことを思いながら、私は山を下りた。

町に戻ると、車の音も、人の声も、信号の光も、いつも通りだった。

けれど、ふとした瞬間に思い出す。

あの山の中で、同じ鳥の声が二度鳴ったこと。

水しぶきが空中に止まっていたこと。

季節の違う山道が、四角い穴の向こうに見えたこと。

もしも山の中でバグが発生したら。

それは、世界が壊れる瞬間ではないのかもしれない。

人が忘れてしまった山の記憶が、ほんの少しだけ表に出てくる瞬間なのかもしれない。

そして山は今日も、何も知らないふりをして、静かに風を通している。


ここまで読んでくれて、ありがとうございます

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