2026年7月3日金曜日
もしも海でバグが発生したら
海は、いつも同じように見えていた。
朝になれば光を受けてきらめき、昼には青く広がり、夕方には赤く染まる。
波は寄せては返し、風は潮の匂いを運び、遠くではカモメが小さく鳴いている。
それは昔から変わらない、当たり前の景色のはずだった。
けれど、その日の海は少しだけおかしかった。
最初に気づいたのは、波の音だった。
ざざん、と鳴るはずの波が、同じ音を何度も繰り返していた。
ざざん。
ざざん。
ざざん。
まるで壊れた映像の一部だけが、何度も再生されているようだった。
砂浜に立っていると、足元まで波が来た。
けれど水は足に触れる直前で止まり、透明な壁にぶつかったみたいに、形を保ったまま固まっていた。
白い泡だけが空中に浮かび、小さな粒になって、光を受けながら静かに震えている。
空は晴れていた。
けれど水平線のあたりだけ、四角く切り取られたように色がずれていた。
青い海の向こうに、夜の星空が見える。
その隣には夕焼けがあり、さらにその横には、雨の日の灰色の海が重なっていた。
ひとつの海の中に、いくつもの時間が並んでいる。
朝の海。
昼の海。
夕方の海。
嵐の海。
それらが境目のないまま、静かに揺れていた。
浜辺には、人が数人いた。
釣り竿を持った老人。
犬を連れた女性。
スマホで写真を撮ろうとしている若者。
けれど誰も大きな声を出さない。
みんな、この景色が現実なのか夢なのか、判断できずに立ち尽くしていた。
沖のほうを見ると、一隻の小さな船が浮かんでいた。
船は進んでいるように見えた。
でも、よく見ると同じ場所に戻っている。
波を越え、少し進み、また同じ波を越える。
その動きを何度も繰り返していた。
船の後ろに残る白い航跡だけが、不自然に何本も重なっている。
まるで海そのものが、船の進み方を覚えられなくなっているみたいだった。
そのとき、遠くの水面が光った。
光は魚の群れのように見えた。
けれど近づいてくるそれは、魚ではなかった。
小さな四角い光の欠片だった。
青、白、緑、銀色。
海の色を細かく砕いたような光が、水面の下から浮かび上がってくる。
それらは波に合わせて揺れながら、空中へゆっくり昇っていった。
誰かが言った。
「海が壊れてる」
その言葉は、不思議と怖くはなかった。
確かに海はおかしかった。
けれど、怒っているようには見えなかった。
むしろ、長い間ずっと当たり前に動き続けてきた世界が、少しだけ疲れて、ひと息ついているようにも見えた。
波はまた動き出した。
止まっていた泡が、ぱちんと弾ける。
空中に浮かんでいた水の粒が、静かに砂浜へ落ちる。
船は、今度は少しだけ前へ進んだ。
水平線に並んでいたいくつもの時間も、ゆっくりと重なり合い、いつもの青い海へ戻っていく。
けれど完全には戻らなかった。
波打ち際には、まだ小さな四角い光が残っていた。
貝殻のそばで、砂に半分埋もれながら、静かに点滅している。
それを拾おうと手を伸ばすと、光はすっと消えた。
代わりに、足元の砂に小さな模様が残っていた。
見たことのない文字のようでもあり、ただの波の跡のようでもあった。
海は何も言わない。
ただ、いつもと同じように波を返している。
でも、もう以前とまったく同じ海には見えなかった。
もしかしたら、世界は完璧に動いているように見えて、ときどき小さなバグを起こしているのかもしれない。
それに気づかないだけで、空にも、山にも、街にも、そして海にも。
帰り道、もう一度だけ振り返った。
夕方の光を受けた海は、穏やかで美しかった。
波の音も、いつものように聞こえる。
けれど、ほんの一瞬だけ。
水平線の向こうで、青い空が四角く揺れた気がした。
海は、今日も何もなかったような顔をしている。
その静けさが、少しだけ不思議で、少しだけ怖くて、そしてなぜか美しかった。
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