2026年6月29日月曜日

もしも神社で世界のバグが発生したら

もしも神社で世界のバグが発生したら

夕暮れの神社は、いつもより静かだった。

鳥居の朱色は、沈みかけた空の色を受けて、少しだけ暗く沈んでいた。
石段の上には落ち葉が数枚あり、風もないのに、かすかに震えている。

その神社は、町の外れにあった。
大きな観光地でもなく、有名な神様が祀られているわけでもない。
ただ、昔からそこにあり、朝には近所の人が手を合わせ、夕方には子どもたちの声が遠くから聞こえてくる。

何も起こらない場所。
それが、その神社だった。

けれど、その日は違っていた。

一歩、鳥居をくぐった瞬間、空気が少しだけ遅れた。
足は前に出ているのに、影だけが半歩前の場所に残っている。
振り返ると、影は何事もなかったように足元へ戻った。

気のせいだと思った。
そう思いたかった。

石段を上がるたびに、世界の端が小さく揺れた。
木々の葉は風に揺れているのではなく、同じ動きを何度も繰り返していた。
一枚の葉が落ちる。
途中で止まる。
そして、また枝に戻る。

まるで、誰かが世界を巻き戻しているようだった。

境内に入ると、社殿の前の灯籠が淡く光っていた。
まだ明かりが灯る時間ではない。
それなのに、石の灯籠の中には青白い光が揺れていた。
火ではなかった。
電気でもなかった。
もっと冷たく、もっと遠い場所から漏れてくる光だった。

賽銭箱の前に立つと、鈴の緒がひとりでに揺れた。
りん、と音がした。
けれど、その音は一度では終わらなかった。

りん。
りん。
りん。

同じ音が、少しずつずれて、境内のあちこちから聞こえてくる。
右から聞こえたと思えば、次は後ろ。
足元から聞こえたと思えば、次は空の上。

世界そのものが、鈴の音を覚え間違えたようだった。

社殿の奥に、黒い隙間が見えた。
扉が開いているわけではない。
暗闇が、木の板の上に貼りついているようだった。
その黒い隙間の中で、白い線が何本も走っていた。

雨でもない。
光でもない。
文字のようで、傷のようで、割れた画面のひびのようでもあった。

その瞬間、神社の空が一度だけ乱れた。

夕焼けの雲が四角く欠け、山の稜線が少しだけ二重になった。
狛犬の片方が、瞬きしたように見えた。
注連縄に結ばれた紙垂は、風もないのに上へ向かって揺れた。

ここは神様の場所ではなく、世界の継ぎ目だったのかもしれない。

普段、私たちは世界が正しく動いていると思っている。
朝が来て、夜が来る。
水は下へ流れ、影は光の反対側に伸びる。
昨日は昨日で、明日は明日だ。

でも、もしその決まりが、ほんの少しだけ壊れたら。
もし世界にも、見えない継ぎ目や、直しきれなかった傷があるとしたら。

神社という場所は、その異変を隠すために建てられたのかもしれない。

人が手を合わせる場所。
願いを預ける場所。
誰もが静かになる場所。

そこには、現実の音が少ない。
だからこそ、世界の小さな異常が聞こえてしまう。

鈴の音が止まった。
境内に、深い静けさが戻った。

さっきまで青白く光っていた灯籠も、ただの古い石に戻っている。
木の葉は普通に揺れ、落ち葉は地面に落ちたまま動かない。
社殿の奥の黒い隙間も、もう見えなかった。

世界は、何事もなかったような顔をしていた。

けれど、鳥居を出る前に、ふと振り返った。

狛犬の足元に、小さな黒い影があった。
影は石の形と合っていなかった。
少し遅れて、ゆっくりと狛犬の下へ戻っていく。

やはり、気のせいではなかった。

神社で世界のバグが発生したら、きっと大きな音はしない。
空が割れるわけでも、町が消えるわけでもない。

ただ、いつも通りの夕暮れの中で、ほんの少しだけ世界がずれる。
葉が落ちる順番を間違え、影が戻る場所を忘れ、鈴の音が何度も繰り返される。

そして私たちは、その小さな異常を前にして、なぜか手を合わせたくなる。

怖いからではない。
神様に助けてほしいからでもない。

世界が壊れかけても、まだここにあることを確かめるために。

鳥居の向こうでは、いつもの町の灯りがともりはじめていた。

振り返ると、神社はもう暗闇の中に沈んでいた。
ただ一瞬だけ、社殿の奥で青白い光がまたたいた気がした。

それは、世界がまだ完全には直っていない合図のようにも見えた。

それでも町は動き続ける。
人は家へ帰り、夜は静かに深くなる。

世界のバグは、誰にも知られないまま、神社の奥でそっと眠っている。


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