2026年7月1日水曜日

もしも赤兎馬が実在したら

もしも赤兎馬が実在したら

夜明け前の草原は、まだ戦の声を知らないように静まり返っていた。

遠くの山並みは青黒く沈み、霧は低く地を這い、軍旗だけが風に小さく揺れていた。

兵たちは息を殺していた。

誰もが、これから始まる戦の重さを知っていたからだ。

そのとき、霧の向こうから蹄の音が聞こえた。

最初は一頭の馬とは思えなかった。

地面の奥から響いてくるような、重く、深く、胸の中まで届く音だった。

兵たちは顔を上げた。

朝の光がまだ届かない草原の中で、赤い影がゆっくりと姿を現した。

それが赤兎馬だった。

毛並みはただ赤いのではない。

燃える炎のようであり、夜明けの空を映したようでもあり、血と夕焼けと太陽の光が混ざったような色をしていた。

大きな体は戦場の霧を押し分けるように進み、首を上げるたびに、たてがみが風に流れた。

その姿を見た兵たちは、誰もすぐには声を出せなかった。

馬とは、ここまで美しく、恐ろしいものだったのか。

もしも赤兎馬が本当に実在したなら、それはただ足の速い名馬ではなかったのだと思う。

戦場に立つ者の心を動かす、ひとつの伝説だった。

敵はその姿を見るだけで足を止めた。

味方はその背を見ただけで、まだ進めると信じた。

そして、その馬に乗る者は、自分が人ではなく何か大きな運命を背負っているように感じたのかもしれない。

赤兎馬は、ただ命令されて走る馬ではなかった。

戦場の空気を読んでいた。

槍の先が光る場所。

矢が飛んでくる方向。

兵たちの恐れ。

主の呼吸。

それらをすべて感じ取りながら、草原を駆けた。

その速さは、風よりも速いというより、風そのものになったようだった。

蹄が地を蹴るたび、泥が跳ね、霧が裂け、軍旗が大きく揺れた。

赤兎馬が走るところに、道が生まれた。

どれほど大軍が前にいても、その一頭が駆け抜けるだけで、戦場の形が変わってしまう。

それは武器ではない。

けれど、武器よりも人の心を揺らす存在だった。

赤兎馬に乗った武将は、きっと孤独だったはずだ。

誰よりも速く進めるということは、誰よりも先に危険へ入っていくということでもある。

誰よりも遠くへ行けるということは、味方の声が届かない場所まで行ってしまうということでもある。

赤兎馬は、その孤独を知っていたのかもしれない。

だから主が手綱を握る前から、静かに首を向けた。

まだ言葉にならない決意を、その背で受け止めていた。

戦が始まる。

太鼓が鳴り、旗が上がり、兵たちの声が朝の草原を震わせる。

その中で赤兎馬は、一瞬だけ動かなかった。

まるで、自分が駆け出せば、もう時代が戻らないことを知っているようだった。

そして次の瞬間、赤い影は戦場へ飛び込んでいった。

霧が割れた。

朝日が差した。

兵たちは叫んだ。

赤兎馬は、ただ走っているだけだった。

けれどその姿は、見る者すべての記憶に焼きついた。

もしも赤兎馬が実在したら。

きっと歴史書には、ほんの短い言葉でしか残らなかったかもしれない。

「一日に千里を駆ける名馬」と。

けれど、その馬を目の前で見た者たちは、もっと別の言葉で語ったはずだ。

あれは馬ではなかった。

戦場に現れた赤い伝説だった、と。

そして長い時が流れても、人々は思い出す。

夜明けの霧の中から現れた、炎のような一頭の馬を。

戦の時代を駆け抜け、誰にも追いつかれず、誰にも忘れられなかった赤兎馬を。


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