2026年6月30日火曜日

もしも駅でバグが発生したら

もしも駅でバグが発生したら

朝の駅は、いつものように人であふれていた。

改札の前では、眠そうな会社員がスマホを片手に歩き、学生たちは小さな声で笑いながらホームへ向かっていた。

売店からは温かいコーヒーの香りがして、電光掲示板には次の電車の時刻が静かに流れていた。

何もおかしくない朝だった。

けれど、最初に異変に気づいたのは、たぶん誰でもなかった。

駅そのものだった。

改札機の青い光が、一瞬だけ紫色に変わった。

ピッ、という音が遅れて鳴った。

通ったはずの人が、なぜかもう一度改札の前に立っていた。

本人も、まわりの人も、それを不思議に思わなかった。

ただ、駅の空気だけが少しだけ冷たくなった。

ホームへ向かう階段では、上っている人と下りている人が、同じ段で何度もすれ違っていた。

同じ顔の人が、右からも左からも歩いてくる。

スーツの男性が立ち止まり、自分と同じ鞄を持った自分を見つめた。

そのもう一人の自分は、何も言わずに人混みへ消えていった。

電光掲示板には、見たことのない行き先が表示されていた。

「昨日行き」

「忘れ物行き」

「まだ来ない朝行き」

誰かがスマホで写真を撮ろうとしたが、画面には普通の時刻表しか映らなかった。

駅員はアナウンスを入れようとした。

しかし、スピーカーから流れたのは、昔この駅で聞いたような知らない声だった。

「まもなく、一番線に、なくした時間がまいります」

その声を聞いた瞬間、ホームにいた人たちは少しだけ黙った。

朝のざわめきが、薄いガラスの向こう側へ遠ざかっていくようだった。

やがて、一番線に電車が入ってきた。

けれど、その電車には窓がなかった。

銀色の車体には、空や人の姿ではなく、誰かの記憶のような景色がぼんやり映っていた。

夏祭りの夜。

雨の日のホーム。

卒業式の朝。

もう会えなくなった人の後ろ姿。

電車の扉が開くと、風が吹いた。

それは地下鉄の風でも、外から入ってくる風でもなかった。

なつかしい匂いのする風だった。

誰かが一歩、乗りかけた。

でも、その足は止まった。

乗ってしまえば、どこかへ行ける気がした。

それでも、戻ってこられない気もした。

駅の時計は、七時四十二分で止まっていた。

秒針だけが逆向きに動いている。

ホームの柱に貼られた広告は、知らない言葉に変わっていた。

自動販売機の飲み物は、すべて「もう一度」という名前になっていた。

ベンチに座っていた黒いコートの老人が、小さく笑った。

「駅はな、どこかへ行く場所やろう。だから、ときどき、行き先を間違えるんや」

その言葉が聞こえたのは、近くにいた子どもだけだった。

子どもは老人を見た。

けれど、次の瞬間、老人の姿はなかった。

かわりにベンチの上には、古い切符が一枚置かれていた。

行き先には何も書かれていなかった。

ただ、日付だけが今日ではなく、明日でもなく、ずっと昔の日付になっていた。

突然、駅全体が大きく揺れた。

誰かが悲鳴をあげ、誰かが改札へ走った。

けれど、改札の外には、さっきまでの街がなかった。

そこには夜の海が広がっていた。

駅前のロータリーの代わりに、黒い波が静かに寄せていた。

バス停の看板だけが海の中に立ち、街灯の光が水面に揺れていた。

誰もが言葉を失った。

世界が壊れたのか。

それとも、駅だけが世界の裏側へつながってしまったのか。

答えは誰にもわからなかった。

そのとき、もう一度アナウンスが流れた。

「お客様にお知らせいたします。この駅は現在、現実との接続が不安定になっております」

あまりにも丁寧な声だった。

だから余計に怖かった。

人々はホームの真ん中で立ち尽くした。

急いでいたはずの会社員も、試験に遅れそうだった学生も、イヤホンをしていた若者も、みんな同じ顔で駅を見回していた。

普段は通り過ぎるだけの場所。

誰も深く見つめない場所。

けれどその日は、駅がまるで生き物のように呼吸していた。

線路の向こう側で、朝焼けのような光がにじんだ。

それは少しずつ広がり、止まっていた時計を照らした。

逆向きに動いていた秒針が、ぴたりと止まる。

そして、普通の向きに動き出した。

次の瞬間、駅は何事もなかったかのように戻っていた。

改札は青く光り、電光掲示板にはいつもの行き先が並び、ホームには普通の電車が滑り込んできた。

人々は少しだけ戸惑いながらも、また歩き出した。

遅刻しそうな人は走り、学生たちは会話を再開し、駅員はいつもの声で案内を続けた。

けれど、誰もが心のどこかで覚えていた。

あの電車。

あの海。

あの知らない行き先。

駅は今日も、たくさんの人を運んでいる。

会社へ。

学校へ。

家へ。

誰かの待つ場所へ。

でも、もしもそのどこかで世界のバグが発生したなら。

いつものホームの向こうに、行くはずのなかった場所が、静かに口を開けているのかもしれない。

そして次にその扉が開いたとき、私たちは気づくのだ。

駅とは、現実の端に立っている場所なのだと。


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